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松本と、暮らしと、ものづくりと、ひと 松本と、暮らしと、ものづくりと、ひと

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松本と、暮らしと、ものづくりと、ひと。

2024/11/2

松本クラフト推進協会

私からあなたへ
暮らしと工芸を繋げる

◉旅人インタビュー・文=佐々木 新 写真=木吉

『松本クラフト推進協会』がもの創りの喜びを多くの人に伝えたいと考え発足されたのは1987年のこと。発表の場をもたない個人の工芸作家による展示販売会としてスタートした『クラフトフェアまつもと』(※1)を皮切りに、体験型クラフトイベント『クラフトピクニック』、松本の工芸月間として開かれる『工芸の五月』が開催されてきた。発足から数十年という長い歴史の中で、松本が全国的に工芸のまちとして認知されるまで至った貢献度は計り知れない。2024年には40回目の節目を迎えた『クラフトフェアまつもと』に初回開催から参加し、その発展を見守り続けてきた、代表理事の伊藤博敏(いとうひろとし)さんとその歩みを辿る。

“若者” “よそ者” “バカ者” で始めたクラフトフェア

松本で初めて『クラフトフェアまつもと』が開催されたのは1985年のこと。発起人の一人である木工作家の蒔田卓坪さんは英国のバッキングハム州の伝統的なクラフトフェアに工房の一員として参加、同じく木工作家の小田時男さんは米国ミネソタのクラフトフェスティバルを体験した。そんな二人が松本で出会い、日本でもクラフトフェアを開催したいと思ったという。

発起人である作家とともに『クラフトフェアまつもと』の原型をつくったのは若者たちだった。20代から最年長でも40代。県外出身者が大半で、資金も経験もないところからのスタートだった。現在『クラフトフェアまつもと』の母体である『特定非営利活動法人 松本クラフト推進協会』代表理事の伊藤博敏さんは、最初、実行委員会ではなく、出展者として参加していたという。

『松本クラフト推進協会』代表理事を務める伊藤博敏さん

「主催者側が全員県外の人で、『長野出身者がいないと駄目だよね』、という話になりました。設立したばかりの頃は、“若者” ”よそ者” “バカ者”という3つの武器が揃っていて勢いがありました。私が年齢的にも一番若く、これから何をしていくか模索していた時期だったこともあって主催者の一員として参加することにしたんです」

その後、第三回目となる1987年『クラフトフェアまつもと』開催時に、イベント名とは別に『松本クラフト推進協会』という団体名がつけられた。対外的に何らかの団体名が必要となったからだという。

「民藝」から「クラフト」へ

「初期の『クラフトフェアまつもと』は、自由を愛するヒッピーカルチャーの『LOVE&PEACE』が根底にはあったように思います。たとえば、木工作家さんの展示の隣で、ドライフラワーが売られていたり、枠組み自体も自由でした』

1980年代以前は、民藝品と聞くとお土産品というイメージが強く、特に個人作家の為の発表の場はほとんどなかった。デパートのギャラリーでは人間国宝の作品が並び、名もない若手作家の作品が展示されることもなかったという。

『クラフトフェアまつもと』が開催されてきた「あがたの森公園」を象徴する並木道

 国内で「民藝」という言葉のイメージが強かった時代から「クラフト」へと意識が移っていったのは、制作の原理を、より多くの人にすぐれた日用品を提供するという民主主義の理念に置いた日本の「クラフト運動」の影響が大きいだろう。ジャンルを飛び越えたり、機械を使用したり、団体に所属していなくても良い、という機運が高まり美術品としての工芸というよりは、もっと暮らしに近い工芸品というイメージの「クラフト」という概念が広まりつつあった。

もちろん、「クラフト」という言葉自体も地域によっては伝統工芸品に近かったり、現代工芸に近かったり、さまざまなニュアンスはあるが、「民藝」から「クラフト」という概念が浸透すればそれだけ幅広い人が参加できることになる。『クラフトフェアまつもと』に託されたのは、このようなものづくりの民主化ともいうべき概念であり、より自由で暮らしに近いものだった。

『クラフトフェアまつもと』の発展

『クラフトフェアまつもと』が初めて、「あがたの森」で開催されたのは5月の終わり。ちょうど5月の終わりの週末に行われる中信美術展に合わせて日程を組んだという。美術愛好家が足を運んでくれるかもしれないという目論見通り、初回から口コミを中心に人気は広がっていった。出展参加者が県外の作家中心だったこともあり、人伝に話が伝播され、同じ出身地であったり、一度住んだことがあったりという人が多く来場することになったのだ。

芝生にならぶ45組の作品出展から始った開催当初の様子(写真提供=NPO法人 松本クラフト推進協会)

 その人気は回数を重ねるごとに増していった。第11回開催では、出展者が300人を超え、野外展示のような催しになった。しかし、イベントを主催する立場として「それを売って良いのか?」という疑問を持つような作品も増え、一度考え直す機会になったという。熟考の末、その後の開催では作品の選考が行われることになった。

「私たちも選考を望んでいなかったのですが、やはり最低限のクオリティは必要だと考えました。選考に反対の声もありましたが、クオリティを保ち続けないとイベント自体が続かないという意見が強かった。『10年間つくってようと、3日前からつくっていようと、同じ土俵に立つのがクラフトフェアだ』と喧嘩に発展したこともありました 笑。『男性がやらないなら私たち女性がやろう』と女性の参加者が多い年もありました』

さまざまな紆余曲折があったが、選考は続き、現在では北海道から沖縄まで全国から応募が約1500名ほど集まるようになった。その中から出展できるのは250名ほど。こうして『クラフトフェアまつもと』は名実ともに全国区で認知される大きなイベントへと発展していった。

毎年5万人を超える来場者を出迎える「あがたの森」の門(写真提供=NPO法人 松本クラフト推進協会)

作り手・使い手・これからなにかをつくりたい人を
つなげる

「私たちは、個から個へ伝えていきたいという想いがあり、『作り手・使い手・これからなにかをつくりたい人をつなげる』ということを大切にしています。初回の『クラフトフェアまつもと』開催時には、ちょうど『つくば博 (国際科学技術博覧会)』が盛り上がっていたんです。当時は、これからはコンピューターの時代だ、もっと便利になる時代だ、という機運が高まっていたから、反対に私たちは『私からあなたへ』というスローガンを掲げたんです」

「松本クラフト推進協会」の機関誌「掌」

 こうしたスローガンは現在でも脈々と受け継がれている。イベントに訪れたお客さんが作家に「あなたの器が好きだが、珈琲茶碗がない」と訴えると、翌年、作家は要望通りにつくってきたりするという。「作り手」「使い手」の距離が非常に近いイベントなのだ。ギャラリーなどでは、オーナーが間に入り、直接的なコミュニケーションは起こりにくいが、『クラフトフェアまつもと』ではストレートに意見が交わされ作品に反映されていく。イベント全体として、「来るもの拒まず、去るもの追わず」のような、外来者でも「面白いやつがきた!」と思うような空気感が醸成されていることも特長だろう。

「松本は城下町で、そもそも外から来た人間が始めたまちです。飯田町も飯田の人が外から集まってきたからその名が付けられた。他所から来た人が自己を表現してコミュニケーションを取らなければ生きていけないまちだった、という歴史的背景があるんです。松本と工芸が密接に繋がっているのは、そのような個を出す土壌があるからかもしれません。松本は吹き溜まる場所と言われていて、何かの産地というわけではなく発信の場なのです」

松本は昔から多くの人が集まるものづくりの発信の場であった

自然という先輩が上から見守ってくれる

「あがたの森」を開催地として選んだのは、立地的な利便性もあるが、美ヶ原高原までを借景にするという審美眼に依るところも大きいという。確かに芝生の広場に立つと、向こう側の建物が隠れて芝生が続いているような錯覚に陥る。きっと出展者は松本の街中に来ているような感覚にはならないのではないだろうか。

また、イベント中は芝生の真ん中は常に空けられているが、日常と非日常が同じ場所に同居することで面白い反応が生まれることを狙っているという。のぼり旗もないし、法被もない、市長が挨拶をすることもなければ、小学校の鼓笛隊が来ることもない。代わりに、子どもが走り回り、寝そべったり、パフォーマーがパフォーマンスをしたり、誰もが自由にその時間を楽しんでもらう空間が生み出されている。

松本随一の広さを誇る「あがたの森」の芝生広場

「『あがたの森』も成長しているので、以前は見えていたものが隠れることもあります。『クラフトフェアまつもと』を始めた頃は、校舎の半分ぐらいだった木が、今ではそれを隠すくらい大きくなっています。自然という先輩が上から見守ってくれるような気分です。自然から借りているというような感覚が年々強くなっているんです」

「イベント自体で言うと、毎年異なる問題が出てきます。協会の中でも対立することもありますが、とにかくイベント二日間だけは楽しくやろうという気持ちを全員で共有しているからこそ、ここまでやってこれたのかな」

長くイベントを続けてきたことで、作家の作品も年々変化していることに注目しているという伊藤さん。良し悪しは別として、20年前の個性云々ではなく、全体的にすごく洗練されてきた印象があるという。また、コミュニケーションにも変化が生まれた。昔は出展者の方に余裕があり、作家同士でビールを飲みながら会話ができたが、近年は来場者が増え、その対応で手一杯になった。来場者も年齢層含めて幅広くなり、その形は刻々と変化してきている。

「あがたの森」のいたるところで作品と出会える(写真提供=松本クラフト推進協会)

子ども達がクラフトと触れ合う体験の場にもなっている(写真提供=NPO法人 松本クラフト推進協会)

作る人から使う人に技術や想いを伝える
使う人の想いを受け取ることを大切にする

体験型ワークショップ『クラフトピクニック』が誕生したのは2002年のこと。実行委員会に参加している人の子どもたちが成長し、自然に「これからは子どもたちにも工芸を伝えていかなければいけない」という話が持ち上がってスタートしたという。途中、新型コロナウィルス感染症拡大により2回の中止があったが、今年2024年は21回目を迎える。

『クラフトピクニック』の特長は、『クラフトフェアまつもと』とは異なり、作り手から使い手に技術や想いを伝えること、使い手の想いを受け取ることを大切にする、ワークショップを主とした体験型ということだ。蚕から繭を取ったり、自分で飲み物をつくったり、調理をしたり、作り手の普段見ることができない部分を体験できるようになっている。来場者は若く、小さな子どもも多い。ある工房では、小さな子どもが「僕はいつ弟子入りできますか?」と聞いてきたこともあったという。

この場所だからこそ続けてこれたと伊藤さん

「教育委員会を通して松本市の小学校全児童にチラシを配布してもらっているので、親御さんと一緒に小さな子どもたちもやってくることが多いです。ゆっくり地元の子どもたちに体験してほしいという想いがあるので、情報発信など全国から人が集まりすぎないように工夫をしています」

体験を大切にしたいという想いには、教育の中でものづくりとの関係性が切断され、プロフェッショナルな職人と子どもたちが実際コミュニケーションを図る機会はほとんどない、という現状への憂いがあるという。巷には、完成した商品は溢れているが、「つくる」という体験自体は圧倒的に不足している。『クラフトピクニック』は、ブラックボックス化してしまったものづくりの工程を可視化させ、日常の暮らしと工芸を繋ぐという想いを具現化したものだとも言えるかもしれない。

作り手と使い手の距離感の近さも『クラフトフェアまつもと』ならでは(写真提供=NPO法人 松本クラフト推進協会)

「私はストーンアーティストなので石割りという作業をするのですが、大きい石の塊に穴を開けて、セリ矢を入れて叩くとパンと割る作業を子どもたちに見せたことがあります。昔からある石割りの手法だと、割れたときに破片が飛び散るんです。そうすると、必ず子どもたちはその破片に集まって拾うんですよね。何が嬉しいのかわからないのですが、そういった体験が子どもたちにとっては新鮮なのだと思います」

「『クラフトピクニック』では、白い鞄にさまざまなスタンプを押してオリジナルの鞄を作ったり、木の塊を鑢でひたすら磨いて石ころを作ったりします。指導する作家さんにもよりますが、それぞれ全く違うものをつくっているということが、何かを生み出す体験になっていくと思います」

そこかしこに佇むちいさな工芸

2007年にスタートした『工芸の五月』は、毎年五月を「工芸月間」とし、松本市の美術館、博物館、ギャラリーなど約40の会場において、企画展・イベント・ワークショップが開催されるイベント。今でも残る蔵や古い建物を巡りながら、そこかしこに佇むちいさな工芸を発見することは、工芸のまち松本を知ることでもあるだろう。

『松本クラフト推進協会』の事務所に貼られた『工芸の五月』の参加型マップには付箋がびっしり

『工芸の五月』の企画は『松本クラフト推進協会』で行っているが、まちという大規模な会場になるので、市役所、商工会議所、JR、バス会社、駐車場の会社にもメンバーに参加してもらっているという。5月の頭から1ヶ月間、市内のギャラリーや美術館、博物館でも企画展が開催され、まち全体で工芸を楽しみ、5月の終わりに開催される『クラフトフェアまつもと』へと繋がっていく。

こうしたまち全体を巻き込むまでに発展した『松本クラフト推進協会』だが、コロナ禍では全てのプロジェクトを中止せざるを得なかった。数十回と積み重ねてきたイベントだけに苦渋の決断だっただろう。しかし、その期間、あらためて立ち止まり、見えなかった課題が見えるようになったことはプラスだったと伊藤さんは語る。

「工芸の五月」Official Book

「現実的な問題として、人手が足りません。イベントの規模が大きくなってきたからこそ、事務的な仕事も多くなり、手がまわらなくなってきています。優秀なボランティアの方もいますが、打ち上げ花火的な感覚で、その期間だけ楽しければよいとはならないようにしたいのです。また、昔は作家のみの集まりで『もっとできる、もっとできる』という気持ちで、理念も共有していましたが、各々のイベントに対するスタンスの違いや、イメージの共有が難しくなってきました。個から個へ、次世代に繋いでいく為にも、それらの課題と一つづつ丁寧に向き合っていきたいと思っています」

未来の工芸

未来の工芸は一体どのようになるのだろうか。これからはテクノロジーの進化により、3Dプリンターで製作された緻密な工芸や、人工知能が生み出した工芸もあらわれるだろう。と同時に、それらを「工芸と呼べるのか?」というあらたな問いをも生じさせることになる。私たちは環境によって常に変化を促されていく。

「あがたの森公園」にある大正時代に建てられた「旧制松本高等学校」は展示会などに活用されている

「作家の意識も使用する人の意識によって変化が迫られていると感じます。たとえば、生活の中でこれまで食器にあまり拘っていない人が、ある作家さんの作品に出会って、家にある100円ショップの器を全て捨てたという話を聞きました。その人は、どのような器を使用するかで、料理の見え方や美味しさまで変わるという気づきがあり、手放すことにしたと思います。そんな人が増えてくると、100円ショップの方もクオリティを上げなければいけない。すると、今度は作家の方も差別化を図らなければいけなくなる。ガスからIHに、畳のない家が増えたり、あらゆるものに対応して作品も変化させていかなければいけない。そうした暮らしの変化は本当に速いですから、逆に私は未来をどうこうしたいとか、前もって予想したりするのではなく、その度に向き合うということをしていきたいと思っています」

こうした課題に『松本クラフト推進協会』が向き合ってきたからこそ、いまの松本の工芸があり、これからもそれを積み重ねることで自然に「未来の工芸」へと繋がっていくのだろう。

この場所で開催されてきた『クラフトフェアまつもと』は2024年には40周年を迎えた

伊藤博敏(いとうひろとし )
「クラフトフェアまつもと」代表理事を務める傍ら、石をつかった作品を手掛けるストーンアーティスト。東京芸術大学を卒業後、地元松本市で五代続く「伊藤石材店」を継ぎ、自らの作品もつくり続けている。石をさまざまな異素材と組み合わせた作品などを制作し、国内外で個展などを開催。海外からも高い評価を得ている。
※1 「クラフトフェアまつもと」は長野県松本市で1985年から続く日本初のクラフトフェア。近年全国で開催されいるクラフトフェアの先駆けとなる。松本市の「あがたの森公園」を会場に毎年五月末に開催。日本全国から集まる250以上の出展数を誇る日本最大級のクラフトフェアで2日間で5万人の動員をする。この期間は文化観光としても大勢の人が松本を訪れ、「工芸の五月」とも連動して地元商店街や自治体と一緒に松本市全体を盛りあげている。

 

特定非営利活動法人 松本クラフト推進協会
1987年に発足。『クラフトフェアまつもと』、『クラフトピクニック』 の主催等も含めて、ものを「つくる人」と「つかいたい人」、更に「これから何かをつくりたい人」を繋ぎサポートしていく活動を行っている。2004年からはNPO法人としてそれまでの活動を通して得た経験やネットワークを生かしたワークショップの開催など社会教育活動にも取り組んでいる。
長野県松本市県(あがた)1-2-14-205
tel:0263-34-6557
fax:0263-34-6545
営業時間:10:00~17:00 毎週土・日曜定休
松本クラフト推進協会 Webサイトはこちら
工芸の五月実行委員会
「工芸の五月」は松本と工芸の深い関わりに着目し、新たなエネルギーを加えようという企画として2007年にスタート。毎年五月を「工芸月間」とし、松本のさまざまな会場で工芸の企画展を開催している。
長野県松本市県(あがた)1-2-14-205(NPO法人松本クラフト推進協会内)
tel:0263-34-6557
fax:0263-34-6545
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クラフトピクニック
2002年にスタートし、毎年十月に開催。多くの子供達も参加する制作実演・ワークショップを中心とした体験型イベント。年代を超えて、作る人から使う人に技術や想いを伝えること、使う人の想いを受け取ることを大切にしている。
クラフトピクニック Webサイトはこちら
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