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松本と、暮らしと、ものづくりと、ひと 松本と、暮らしと、ものづくりと、ひと

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松本と、暮らしと、ものづくりと、ひと。

2024/2/14

わたしに還る松本

◉文=徳 瑠里香 挿画=中沢貴之

 松本のつくるひとたちをインタビューして回った旅人インタビュアーが、松本への小さな旅で感じたことを綴るエッセイ。母であり妻であり編集者・ライターでもある旅人は、いったいどんな松本を見つけたのだろうか。

 頻繁に会うわけではないけれど、断片的であっても表面的ではない自分が大事にしていることを共有できている感覚がある人たちがいる。佐々木新さんもそのひとりで、娘が生まれる頃に書いた本をきっかけに関係性がはじまった。新さんが“旅人インタビュアー”として推薦してくれた『組み立て』を開いて、そこに流れる余白のある時間とものをつくる人たちの物語と生活音に引き込まれ、すぐにやりたい!と思った。けれど娘が生まれて6年、一度も離れてひとりで旅をしたことはない。仕事でも生活でも「わたし」であることよりも「母」であることを優先してきた。娘がいつでも安心して帰ってこられる居場所をつくること、娘と過ごす日々こそがわたしがいちばん守りたいものなのだ。それでもわたしは、松本への小さな旅の誘いに二つ返事をした。母であることよりも、わたしであることを優先して。

 とはいえ、我が家の事情で夫に仕事の調整を期待することはできない。案の定わたしが松本行きを決めてから、夫のサウジアラビア行きが決まった。東京から愛知の実家に娘を預けられるよう算段している最中、娘の保育園のママ友が「うちで預かるよ!」と提案してくれた。遠慮も躊躇もあったものの、信頼している彼女の懐の深さに甘えて、思い切ってお願いすることに。当日、友だちの家に泊まりに行けることを心待ちにしていた娘は「やっとこの日がきたー!」と飛び起きて、不安や寂しさよりも楽しみがまさっているようだった。

 娘を保育園に送って、掃除と洗濯をして、準備をして家を経ち、新宿からあずさ25号に乗り込む。いつもとは違う行き先に心が浮き立った。今回の小さな旅の取材テーマは「山と、自然とともに生きる」こと。テーマにちなんで家の本棚から持ってきた星野道夫の『旅をする木』を開いたら、学生時代にバックパックで旅をしていた記憶が蘇る。他国の人の営みと圧倒的な自然に焦がれていた時期があったのだ。夢中になってページをめくりふと顔を上げたら、窓の外には山々が広がり、虹がかかっていた。

††

 松本に着いたのは金曜日の15時。そこから松本を離れる月曜日の15時までの丸3日間で、私はたくさんの「松本と、暮らしと、ものづくりと、ひと」に触れて「おいしい時間」を過ごした。

「松本ブルワリー」のタップルームで編集長の中沢さんと交わした、旅のはじまりの乾杯。店主に聞いて松本のおいしい地図を引いた「peg」。静かな朝、取材前の心を整えた「珈琲美学アベ」。編集チームと合流して車で登った冬の鉢伏山荘。鉢伏山を降りたあと、冷えた体を溶かしてくれた「かうひいや三番地」のカフェオレと「瀞(とろ)」のおでん。

 朝7時に浸かった菊の湯と「松本から出たくないのよ〜」と言っていたおばあちゃん。湯上がりに「栞日」で飲んだ「草譯」のボタニカルシロップ。マーケットで巡り合った四賀村「みる」の季節を彩るはちみつ。川辺で頬張った洋菓子店「マサムラ」のシュークリーム。水筒に汲んだ湧水。「野麦」の水のような蕎麦と和菓子のような蕎麦湯。鼻を啜る私にティッシュを差し出してくれた「10cm」の店主。「ラボラトリオ」のりんごのタルトとお姉さんが推してくれた安曇野「タケノスベイク」のグラノーラ。1個70円の不揃いな無農薬レモン。ものの物語を静かに熱く語ってくれた「guild」の店主と1970年代のフランスの湯呑み。松本の自宅に眠る8mm フィルムを集めた三好大輔監督の映画『まつもと日和』と鑑賞後の対話(監督のご家族と菊の湯で遭遇していた!)。寒空の下、古市でクリスマスツリーを囲むソファで暖を取った「ヤマベボッサ」のホットジンジャーとホットサンド。ゲストハウス「tabi-shiro」のプライベートサウナと空っぽの体に沁みたpeg店主のピザと「豊味」の生ビールと油淋鶏。

 立ち上る湯気に五感が開く「山山食堂」の朝ごはん。「善哉酒造」の店先ではじまる井戸端会議と緑茶と漬物。つばめが飛び交いクレソンが咲く女鳥羽川。売り切れ寸前に駆け込んだ念願の「kawazoi」。帰りの電車でかじった「シェ・モモ」のレモンケーキ……。

 松本では自然と店主と言葉を交わした。インターネットで事前に検索した情報は一つもなく、松本で暮らす人たちが「ここが美味しいよ!」「この人がおもしろいよ!」とバトンを渡すように目を輝かせて教えてくれた。その言葉を頼りに、自分の胃袋と気分が向くままに街を歩き回り、気づけば心が動かされたものが詰まった紙袋を花束のように両手いっぱいに抱えていた。わたしの松本のGoogleマップには「お気に入り」と「行ってみたい」ピンがひしめきあっている。

††

「松本に好かれましたね」──後ろ髪を引かれながら帰路につく頃、いくつもの偶然と好運が重なったわたしの旅路を伝えた人がそう言ってくれたけれど、わたしも松本がとても好きになった。松本の人たちは、「好き」や「やりたい」といった自分の衝動がものづくりや商売の原点になっていて、本気で真面目に遊んでいるようにも見える。松本でわたしが触れたものには、普段は仕組みの中で消えてしまうような温度感や手触りがあり、つくる人の思想やあり方が宿っているように思う。大事に育てて守っている宝物をお裾分けしてもらっているような、人生で培ってきた美学や哲学をのぞかせてもらっているような感覚がした。

 東京にいるときのわたしは、母、妻、編集者、ライターといろんな側面を持つ多面体であるけれど、松本ではその角がとれて丸くなって何者でもないただの「わたし」としてあれるような心地よさがあった。それはきっと松本が、人の営みと自然が近く、仕事と生活と遊びの境界線が溶け合い、個が浮かび上がってゆるやかにつながる場所であるからだろう。松本のゆったりとした時間にただよう中で、心が沸き立つ「好き」や「やりたい」の扉が、「わたし」がひらいていった。

 わたしがひらいていったのは松本という土地の力もあるけれど、数年ぶりにひとりで旅をしたことも大きいだろう。誰かのペースに合わせることなく、自分の歩幅で歩き回れる、羽が生えたような軽やかな自由があった。

††

 インタビューで山と、自然とともに生きる人たちの話にじっくりゆっくり耳を傾けながら、わたしにとっての自然は娘だ、と思った。妊娠から出産に至るまで、生まれてからも命の危険と隣り合わせにありながら、ともに過ごす日々の中で、自分の力ではどうしようもできないままならなさに幾度も遭遇した。思い通りにしようとせず、ままならなさを受け止めて流れに身を任せたとき、思いもよらない景色を見せてくれることがある。今回の旅でも、娘を預かってくれている友人から届く、わたしと離れて楽しそうに過ごす娘の便りを眺めながら、何度も泣きそうになった。何をするときも一緒にいた娘が自立して離れていくような寂しさと、わたしが戻ってくるような嬉しさが綯い交ぜになって。

 そんなことに思いを巡らせながらひとり旅の余韻に浸っていると、あっという間に窓の景色はビルに変わった。新宿で電車を降りて人の多さに戸惑いつつも、所属が苦手なわたしは、雑踏に紛れるように多様な個が溶けて曖昧な存在でいられる東京も嫌いじゃない。今回の松本の旅で今まで考えてもみなかった移住や二拠点が頭を掠めたけれど、今はこの街にわたしの生活の拠点がある。松本にはまた必ず訪れて、小さな旅を重ねていくのだろう。日常から離れてまっさらなわたしに還る、山に登るような気分で。

 保育園に迎えに行くと「ママー!」といつものように娘が駆け寄ってくる。まだまだひとりで考えたいことや言葉にしておきたいことがあるのに、娘のおしゃべりと生活が押し寄せてきて心と動作が一致しない。ああままならない。けどやっぱりいとおしい。わたしはわたしの自然とともに、ままならなさといとしさを抱き止めながら、この日常を生きていく。

徳 瑠里香(とくるりか)
愛知県に生まれ、大学で上京して以来東京で暮らす。出版社に勤務し、本をつくった著者のブランドで働いたのち、独立。企業から個人まで、話を聞くことからはじめ、創作や関係づくりに伴走する。著書に『それでも、母になる:生理のない私に子どもができて考えた家族のこと』(ポプラ社)がある。
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