
2023/3/8
松本を飲む
冬の旅人が歩いた
水の街松本のこと
◉文=川瀬佐千子 挿画=中沢貴之
松本のつくるひとたちをインタビューして回った旅人インタビュアーが、取材の合間に歩き回った松本の思い出を綴る。松本を訪れたのは初めてという旅人は、いったいどんな松本を見つけたのだろうか。散歩のキーワードは「水」だった。
「松本には川や水路がたくさん流れているんです。大きいのもあるし、小さいのもある。その川沿いの道を散歩したり、ぼーっと水の流れを見ていたりすると、だんだん時間の流れがゆっくりになっていく。帰ってきたなと感じるんですよ」と、松本出身の人は言った。この言葉が今回の松本散歩のテーマを決めるきっかけになった。
初めての街に行ったら、なにかテーマを持って散歩をすることにしている。書店巡りとか猫巡りとか公園巡りとか……。街の中に点在するその目的地たちをつなぐように歩き回っていると、自分もその街の一部になるような、暮らしているような心持ちで旅できるからだ。
今度の旅先は松本。松本といって思いついたのは、クラフト&民藝、国宝松本城、アルプスへの玄関口、移住者、音楽祭……というキーワード。でも、冒頭の答えを聞いてふと、水に興味が湧いた。調べるとすぐに「湧水」という言葉にぶつかった。
湧水とは地下水が自然に地表に湧き出てきたもののこと。松本市街地には数多くの湧水があるという。周辺の山々で磨かれた水が地下深くに蓄えられ、それが街のあちこちに湧き出ているのだ。それらは「まつもと城下町湧水群」と名付けられ、環境省の選定する「平成の名水百選」にも認定されている。松本観光情報ウェブサイトには「まつもと水巡りマップ」も用意されていた。よし、これを片手に歩いてみよう、と決めた。
水巡りマップには水の雫のマークで湧水の場所が示されている。公共のものもあれば、私設のものもあるようだ。雫のマークがたくさん散らばっているのは、松本駅前からまっすぐ東に延びるあがたの森通りを東に進んで松本市美術館の手前を北に入ったあたりだ。
聞こえる。ゴボゴボという水の音。道路の脇にあったのは、江戸時代から街の水源として使われてきたという源智の水源地井戸だ。きれいに整備されて看板が建てられ、市による水質調査の結果も掲示されている。なるほどこれが公共の湧水。一口飲むと冷たくてまろやか。そこから路地を北へ進むと、湧き出た水が集まって水路を流れるドウドウという音に、家の軒先に備え付けられたパイプやホースから水が流れ落ちるジョボジョボ音(これが私設の湧水)、どこかで水が湧いているくぐもったゴボゴボ音と、さまざまな水音が住宅街にこだまする。マップに「あちこちから水音が聞こえてくる」と書かれているのはこのことか。この音を聞きながら歩いていると、頭の中のモヤモヤや淀みが流されていくようで、清々しくゆったりとした気持ちになる。
もはや地図もあまり見ず、水音に導かれて歩いていけば、湧き出る清水があちこちに。ひと口ずつ飲みながら、静かな住宅街を散策する。とある湧水の脇には、きれいなクレソンが自生していた。ほんのちょびっとつまんで口に入れると、フレッシュな強いピリリとした辛味がおいしかった。湧水が流れていく水路には、なんと魚が! 横腹の斑点はニジマスのよう。松本の街中には豊かな自然が流れていた。
地元の人が車を止めて水を汲んでいたので遠くから見ても湧水があるとわかったのは、伊織霊水という名の井戸。ペットボトルに何本も水を汲んでいるご夫婦に「いつもここの水ですか?」と訊ねると、「車が停めやすいのでね」とのお答え。「おすすめの水はどこですか?」との質問には「この先にある女鳥羽の泉がおいしいですよ。酒造の軒先にあって、その水でお酒をつくっているそうですから」とのこと。お礼を言って歩き出すと、その人の車の後ろには別の車も並んで水汲みの順番を待っていた。
もしかして、ここが隠れた名水なんじゃないの? と思ったが、あとで市内のワインバーの人に聞いたらやっぱり伊織霊水はおいしいとのこと。汲んでいた人は「知られたくない!」ということで別の湧水を教えてくれたのか……いやいや考えすぎ。
そうやってあちこちの湧き水を飲みながら2時間ほど歩き回ると、空には夕暮れの気配が広がっていた。そろそろ水以外のものも飲まなくては、と中町通りから女鳥羽川の方に入った路地にある、松本ブルワリーのタップルームに向かう。湧き水を巡った後はおいしいクラフトビールを飲もうと決めていたのだ。
カウンターでまずはビターを注文。湧水もおいしかったけれど、これはまた格別。穏やかな苦味が散歩の疲れに心地いい。「観光?」と常連さんに声をかけられた。
「はい、湧水巡りしてきました。仕上げにビールを飲もうと」
「いいねえ!」
聞けば松本はとにかく地下水が豊富で、それゆえに建物の地下が作れないんだそう。最近できたショッピングモールもそれゆえに地下フロアはなく地上3階建てなんだとか。
「あとね、それぞれ湧水は湧いている地層の深さが違うから、軟水だったり硬水だったり、場所によって違うんだよ」
そういえば、女鳥羽の泉で水を汲んでいた女性は「ここの水で煎れたお茶はとってもおいしいのよ」と言っていたっけ。ならばあれは軟水かな。
「そうそう。例えば硬水は、源智の井戸ね」
2杯目のペールエールを飲みながら、散歩の最初の方で飲んだ源智の井戸の味わいを思い出そうとしたけれど、フルーティなホップの香りと豊かな麦芽のうまみが鼻腔にも喉にも広がって「今はビールを味わいなさい」と主張してくるものだから、水の味の違いについては明日の朝もう湧水を巡って確かめてみようということにして、3杯目はスタウトかな……。静かな松本の宵の口、タップルームは賑やかだった。
- 川瀬佐千子(かわせさちこ)
- 編集者・ライター。出版社勤務を経て、フリーランスに。雑誌や単行本などの出版の世界のほか、企業やブランドのコンテンツやコピーライティングなど、広告の分野でも活動する。食べ物と物語、旅、そして猫を愛する。共著『おいしいおはなし』(グラフィック社)は児童文学と食について綴ったコラム&レシピ本。