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松本と、暮らしと、ものづくりと、ひと 松本と、暮らしと、ものづくりと、ひと

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松本と、暮らしと、ものづくりと、ひと。

2023/7/29

Otama

場の関係を結び直し
“私”を再構築する

◉旅人インタビュー・文=佐々木 新 写真=木吉

 Otamaこと、太田真紀(おおたまき)さんはイラストレーションを軸とした物語を伝えるデザインや、ブランドの世界観づくり、ヴィジョンの視覚化などを得意とするクリエイター。松本で生まれ育ち、東京の武蔵野美術大学でデザインの基礎を学び、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズを卒業。その後、デザイン・イノベーション・ファーム「Takram」にデザイナーとして参加した。東京で幅広いヴィジュアルデザインの仕事に携わってきた太田さんが独立すると同時に東京を離れて向かった先は松本だった。幼少期から成長した太田さんのまなざしには、故郷はいったいどのように映るのだろうか。

謙遜ではなく客観的に絵は上手くない
それでも小さな頃からずっと描くことが好きだった

 松本で生を受けた太田真紀さんは、幼少期、父親の仕事の関係で数年間、米国ウィスコンシン州に住んでいた。英語に誤りがあったらと考えると何も話せないほど恥ずかしがり屋で、コミュニケーションを上手くはかれなかった記憶があるという。

 その後、松本に戻り、芸術に興味を持ち、高校に進学するが、進学校だったため授業の内容には次第についていけなくなったという。中学時代から美術大学に行きたいと考えており、すぐに美大の予備校であるマツモトアートセンターに通い始めた。

「謙遜ではなく客観的に絵が上手くないと思っていますが、小さな頃からずっと描くことは好きでした。叔母が美大出身で、長野の情報誌を作っていたこともあり、もしかしたら影響を受けていたのかもしれません。学生の頃は文集の表紙を描いたり、文化祭のTシャツをデザインしたりしていました」

制作の元となるラフスケッチ

 美大を目指して通っていたマツモトアートセンターでは精神的なことを沢山教わったという。「描きたいと思った時にすぐに描くことが大切なので鉛筆は常に尖らせておけ」というような技術以前のことだ。しかし、振り返ると、自身の土台となっているような気がすると太田さんは語る。

「デッサンでコップを描く時に素直にそのままを描くことが大切ですが、勉強をしすぎた人は情報を整理しすぎてしまう傾向にあると何度も言われました。たとえばコップが被写体の場合、各々のパーツ、円柱や六角形などの構造体をしっかり頭に思い描いて、モチーフそのものを見ずに手を動かしてしまう。論理的には描けますが、整理しすぎると、水滴や反射などその他の細部が蔑ろにされてしまいます。私はそのように頭でっかちになってしまうことが多く、苦労しました。唯一褒められたこととして『変な靴下を履いたりしないところが信用できるね』と言われたことだけが心に残っています。きっと全体がよく見えていてデザイナーとしてバランス感覚があると言われたのだと、良いように解釈しています。」

色鉛筆は一本一本きれいに削られている

東日本大震災で問い直した「生きる」ということ

 東京に親戚の家があったため、子どもの頃からよく上京していた太田さんは、松本から離れることにさほど抵抗感がなく、自然に大学は東京に行くだろうと感じていたという。だから武蔵野美術大学へ進学したことは自然の成り行きだったのかもしれない。

 大学時代には影山知明さんが経営している西国分寺の『クルミドコーヒー』でアルバイトばかりをしていた太田さん。顔が見える共同住宅というコンセプトのコレクティブハウスが建物の上階にあり、さまざまな面白い人との出会いがあったという。その出会いが後の人生のターニングポイントの一つになっていく。

本に囲まれた作業場

 太田さんにとって大学在学中、もう一つ大きなターニングポイントなったのは、就職活動中、初めてリクルートスーツを着て行った会社説明会の最中で東日本大震災が起こったことだった。東京の電車が停まり、自宅に戻れなくなって、たまたまその時に隣にいた人と一緒に居酒屋をハシゴすることになる。

「東日本大震災後の混乱がしばらく続き、周囲に流されるままの就活に疑問を抱くようになりました。このあと会社で働くイメージが持てず、海外への留学を決めたんです。選択肢は色々ありましたが、英国が一番情報が取りやすく、繋いでくれる事務局も国内にあったので、英国セントラル・セント・マーチンズに通うことにしました」

洋服ダンスに資料などを入れてマップケース代わりに

君はイラストを描く顔をしているね

 ロンドンでの生活は、武蔵野美術大学の友人に紹介してもらった一学年上の先輩とルームシェアしたことでスムーズに始まった。英語が不安だったこともあり、1年目に選んだのは大学院ではなく学部。武蔵野美術大学では「デザインを専門分野によって分けない」という領域横断の考え方がベースにあった。しかし、幅広く考えるぶん何かに特化している感覚がなく、専門性が欲しいと感じてグラフィックデザイン科を専攻した。

「標準をつくるのではなく、それぞれの才能を伸ばしていくような教育を肌で感じました。たとえば、タイポグラフィの授業の中で技術的なことをあまり理解していなくても、アイデアが明快でプレゼンテーションが上手ければそれで説得力を持つような魅力的な人が多かった印象です。その後に進んだ修士過程の学生は落ち着いていましたが、1年目に在籍した学部の方は尖ったクラスメイトが多く大いに刺激を受けました」

ラジオを流しながら作業をすることが多いという

 その後、イラストレーションを本格的に描き始めるようになるが、その契機は意外にも留学前の東京での出来事だったという。それは東京表参道の山陽堂書店で行われた安西水丸さんのトークイベントに参加した時だ。終了後に安西さんに挨拶に行ったときに「君はイラストを描く顔をしているね」と言われて、そのまま真に受けてしまった。しかし後日、安西さんをよく知る人に聞くと、同じようなことを言われる人はいて、珍しいことではなかったようだ。

「思い込みの力は凄いですね。その一言でやる気になって、それまでイラストレーションは依頼されたら描くというスタンスだったのが、初めて積極的に取り組みたいと思うようになりました。安西水丸さんや和田誠さんなど同時代のイラストレーターさん達は、粋な生き方とユーモラスなイラストレーションの作風が結びついているかのような魅力を感じます。当時私は基礎デザイン学科で『タイポグラフィを制作する時は色がついた服は着てはいけない』というような真面目でピリッとした授業が多かったので、そんなイラストレーターとしての生き方ができたら素敵だなと思うようになりました。そのような憧れを持ってロンドンに向かったのです」

ラフスケッチを元にベジェ曲線を起こしていく

絵が上手ではないからこそ始めたスケッチ

 絵が描きたいけれど上手くないという自覚があったからこそ、ロンドンでは基本であるスケッチから始めた。題材はパリと繋がっているセントパンクラス駅の人々。多様な人種が利用する駅だからこそ、さまざまな別れや出会いのシチュエーションが面白いと感じたという。そのシーンを動画に収めて、そのコマを一枚一枚トレースしながら描いていった。1秒で10フレーム、10秒で100枚。音楽は近くにあったストリートピアノから録音したという。

 こうして卒業制作としてつくられることになる『10 SECOND POETRY』が完成するのだが、この作品は学問的にも面白い視点がある。ロンドンの街角を切り取った、「10秒間の物語」の背景には、卒業研究として、文化人類学にある「エスノグラフィ」的な日常の記録に詩的な表現を組み合わせたらどうなるかという問いがあった。人を観察することが好きな太田さんならではの視点。見慣れた環境を出て、新しいものに出会う喜びが制作の源になっていたのかもしれない。

「現在では何もないところから想像した絵を描けるようになりましたが、ムービーをトレースしてアニメーションにしていくという、自由に想像で描く為に必要な土台をロンドンで培っていたのかもしれません。そうした地道な過程を選んだのも、自身の絵の才能の否定というところが根っこにあります。見慣れぬ世界だからこそよく観察し、それを忠実に絵にしていくというルーティンがロンドン時代に出来あがったような気がします」

想像力を駆使して描く未知の世界

 セントラル・セント・マーチンズを卒業し、帰国した太田さんはしばらくは「クルミド出版」の装丁の仕事などに取り組みながら、就職先を探すことになる。そうした状況下の中、東銀座の「森岡書店」へたまたま訪れ、なりゆきで店番を任せられることになった。翌週に予定ができてしまった店主の森岡さんは、店を手伝ってくれる人を探しており、その場で知り合ったにも関わらず、なぜか翌週から少しのあいだ店番として立つことになったのだ。

「森岡書店」は、一室、一冊がコンセプト。毎週一冊だけが店に並び、お客さんはその一冊と深く出会えるような本屋だ。そこで店番として立つことになった太田さんは、本好きということもあり、次第に「森岡書店」のアートディレクションをしているデザイン・イノベーション・ファーム「Takram」に興味を抱くようになる。その後、偶然、ロンドンでルームメイトだった友人もまた「Takram」でインターンしていたことも重なって、リファラル採用として紹介してもらうことになったという。人との出会いがまた新しい出会いに繋がるという、太田さんらしい就職活動だと言えるかもしれない。

NTT都市開発『都市と生活者のデザイン会議』のためのイラストレーション

「Takram」に参加したのが、27歳ということもあり、少し心の余裕があったという太田さん。インターンののちアシスタントを1年務めてから、正社員のデザイナーとなった。仕事内容は、プロダクトやサービスの設計からブランディング、新規事業の開発などに携わるような案件。たとえば、数十年後の未来の体験を考えて、クライアントとのワークショップなどを通じて得たヴィジョンやアイデアをイラストレーションでビジュアライズするような機会もあった。想像でイラストレーションを描けるようになってきたのは、この頃からだという。

「SFのような未来のシナリオを考える仕事があって、その舞台設定としてイラストレーションを描くことがありました。デザインは、いま世界にないものを提案している時点で、スペキュラティブであり、フィクションから始まっているという考え方があります。それまでは写真や現実として目の前に物や風景がなければ描けなかったのですが、このタイミングで想像力を駆使して絵を描くようになりました。イラストのタッチとしても、現在のスタイルになっていったのはこの時期からだと思います」

松本への移住は素直な心に従ったから

「Takram」で幅広いプロジェクトに取り組んでいた太田さんが次第に独立したいと思うようになったのは、多様なクリエイターとコラボレーションをする機会に恵まれ、彼らのような働き方に憧れたからだという。

「5年間ほど在籍し、イラストレーターとして独立してやっていきたいと思い始めました。それに会社に所属しながら様々な企業の仕事をしていると案件に合わせて毎回タッチを変えなければいけないので、練度が上がりづらく、スタイルも確立しにくいと感じていたこともあります。領域横断的な働き方をする環境では、本当に多くの分野の勉強もしないと付いていけない。プロフェッショナルな集まりだからこそ、中途半端な態度ではいけないと思って、イラストレーションに絞ってやっていこうと決意したんです」

 そうした決意を固め始めた時、コロナが蔓延し、出社ができず自宅からの仕事がメインになった。世間でもリモートワークやオンライン会議が主流となった2021年に、太田さんは独立を果たす。

「takram」に在籍していた頃の「TEIJIN」のためのイラストレーション

 独立して間もない頃は、東京の案件を主に受けていた。当初は東京と松本の二拠点生活をしていこうと思っていたらしい。しかし、いざ独立する時に、松本で活動した方が部屋の広さの面でも金銭面でもストレスが少ないと考えた。近くには家族もいる。

「漠然と50代くらいには故郷に戻るのかなという想いがありましたが、コロナ禍になってそれが早まったような感覚があります。松本への移住は素直な心に従って決断をしました」

 ここでも太田さんは人生の転機で、素直な心に従って動く。マツモトアートセンターへ通った時や就活、「Takram」に参加する時と同様に。

「私自身、あまり積極的に動くタイプの人間ではないと思っています。どちらかというと、長い期間、現環境への不満、行き詰まりが弾けて次へと移っていくような感じです。決して衝動的に動くタイプではなく、時間をかけて考えて動く人間です。それに、やりたくないことはできないタイプでもあるので、素直に心が感じたまま動くようにしています。その方が他人に対しても誠実だと思うから」

Paragene作、SFマーダーミステリーのためのイラストレーション

物語を愛する人は物語に愛される

 独立して間もない頃は、「クルミド出版」や、松本と東京に拠点を置く「藤原印刷」をはじめ多くの方に助けてもらったという太田さん。「藤原印刷」では、大手出版社ではない個人や小さなチームによる多様な本づくりのことをクラフトプレスと呼び、作り手を制作面でサポートしている。「クルミド出版」はもともと出版社ではないが、書き手の表現活動を応援し、長く大切に読んでもらえる一冊をつくりたいという想いがある。想いが重なって10年間の繋がりがあるという。太田さんは『こどもの時間 – childhood』、『草原からの手紙』などの装丁の仕事を手がけた。それらの仕事の一端をご紹介したい。

『こどもの時間 – childhood』は、西国分寺の喫茶店、クルミドコーヒーから出版された詩集。原著Childhood から18編を収録し、日本語訳詩を添えた日英併記の作品だ。装丁は女性らしい柔らかく繊細なデザインである。

『こどもの時間 – Childhood -』

『草原からの手紙』は、寺井暁子さんのエッセイ。マサイの大地を歩く6日間の旅の途中で、著者からパートナーへ宛てて書いた実際の文章がベースの作品。装丁にはケニアから届いた手紙をイメージした紙や仕様で、栞紐にはケニア産の革紐を使うなど、細部までこだわった作品となっている。

『草原からの手紙』

『本だったノート』は、古本の買取販売を行うバリューブックスに日々届く本のうち、値段のつかないものから紙を作り、ノートに仕立てるプロジェクト。主に文庫本を中心とした「古紙回収に回すはずだった本」70%と、牛乳パック再生パルプ30%の配合比率で作られている。たまに紙の表面には文字のかけらを発見することができる。カバーデザインは、「藤原印刷」の工場から出た廃インキを一つのローラーに複数詰め、混ぜながら刷ることによって、ロットや切り取る箇所で変化のあるグラデーションとして見せている。再生紙の粗い質感や、大量生産のプロダクトには見られない不均質さをポジティブに活かすデザインが特長的である。

『本だったノート』

『カサンドラ・エクスペリ』『アスタリウム』『ネクロカルト』は、「Takram」時代の同僚が制作したSFマーダーミステリー。本シリーズのヴィジュアルは、「Takram」での未来シナリオの仕事で培った経験とスキルが十二分に発揮されている。

左から『カサンドラ・エクスペリ』『アスタリウム』『ネクロカルト』

 本が好きだという太田さんらしく、ひとつひとつの作品の細部にこだわりをみてとることができる。人と人との縁、自身や他者の人生という物語を大切にしてきた太田さんだからこそ生まれたプロジェクトであり、その形が本であることは実に興味深い。物語を愛する人は、物語に愛されるように、まさに太田さんの生き方がこれらの仕事にも結実しているように感じられる。

あらたな視点でみる松本

 松本に移住した太田さんだったが、まちを楽しむというような余裕はしばらくなかったという。独立した頃は、まさにコロナ禍真っ只中だったということもあり、人とも会わなかった。忙しい仕事の合間にしていたことは散歩だった。

「学生時代からよく知っている道を散歩するのですが、場所との関係を結び直すということをしています。どんな人も変わっていきます。古い友人に久しぶりに会ったとき、お互いに当時のイメージや思い込みを捨てて新しい関係を結び直さないと、心地いいコミュニケーションを取るのは難しいなと思います。もっといろいろな人に会って、新しい関係を結びたいと思いますが、今はその代わりに「場所」と出会い直している感覚です。当時歩いていた道をもう一度歩んで、あらたな発見をしたりして、『私』の再構築をしているのかもしれません」

水のまち松本は水路にそった小道が多く、お気に入りの散歩コースとなっている

 場の関係を結び直した、具体例として、太田さんは、「まつもとフィルムコモンズ」での体験を教えてくれた。「まつもとフィルムコモンズ」は市民団体で、松本市で撮影された8mmフィルムを収集し、それをデジタル化して「地域映画」を作っている。提供してくれた人にインタビューをしたり、地元の子どもたちと映画の効果音を作ったり、映像を見て多世代で語り合ったり、それらのプロセス全体を映画にしている。太田さんはそのポスター制作をしたり、かつて卒業した清水中学校でワークショップを行ったりしたという。

「ワークショップでは、フィルムの中からシークエンスを切り出して、1フレームずつ、印刷します。それを各班に分けて、トレースして描いてもらいました。最後にそれらを集めてアニメーションにすると、松本の風景の1コマ1コマに思い入れを持ってもらえるのではと考えました。中学時代は勉強ばかりしていたので、個人的にあまり良い思い出がなかったのですが、久しぶりに訪れたら、在校生がとても一生懸命に制作に取り組んでくれて、その姿に心が洗われました。当時の私もこんな学生の一人だったのかもしれないと、私の過去の記憶が再構築された瞬間です。押し込めていた記憶を、よりフラットに捉えられるようになったのかもしれません」

『まつもとフィルムコモンズ』のポスター

新たなスタイルへの挑戦

 クリエーションする上で散歩がとても重要な行為になっているという太田さん。東京と比較しても人口密度が低く、満員電車などのストレスが少ないということもあるかもしれないが、成長したことによって幼少期よりも視野が広くなったのかもしれない。山を見て綺麗だと感じて絵にしたいと思うようになったのも松本に戻ってきてからだという。

「ロンドンで暮らしていた時と同じように、インスピレーションを受けた風景を写真撮影しています。仕事として行なっている訳ではありませんが、無意識のうちに手が勝手に動いています。手で描くという行為をやりたいと感じているせいかもしれません。ロンドンの時のロトスコープとは違いますが、写真をベースにして描いています。」

気になった景観は写真に収める

 自主制作の時間に、手で描くという行為を新しいスタイルへの挑戦として行っていると話す太田さん。その理由はイラストレーターとしてやりたいことの半分もできていないと感じているからだという。

「現在の絵のスタイルでの制作過程は固まってきていて、これも好きですが、時代の需要に合わせて作ってきたタッチでもあります。今後は、よりゆらぎや手の跡が見えるものも出していけるように探求したいです。下書きから最終的にベジェ曲線で仕上げる時が機械的な作業になってしまっているので、何か変化をもたらしたい。最近ようやく自主制作の時間が取れるようになったので、さまざまな挑戦をしていきたいです。モチーフも決まっていないし、自分のベストを探したい欲求が強いんです」

松本の生活で気にとまった風景を元にして制作された、新しいスタイルの作品たち

低空飛空を楽しむような生き方

 太田さんに松本へ移住したことで何か仕事の幅や内容に変化があるか尋ねてみた。会社に所属するデザイナーとして求められる内容から、ローカルでフリーランスとしての仕事はどのように変遷したのだろうか。

散歩道の木々の表情も豊か

「引っ越した当初、できるだけ地域に関われるように色々と仕事を紹介してもらって、出会いもあったので本当にありがたかったです。ただ、一人きりで幅広くブランディングからデザインまで引き受ける方向で将来をイメージしていなかったので、周囲から期待されることと自分のやりたいことを擦り合わせる必要がありました。ローカルでは総合的に何でもできることが求められる感覚がありますが、実際引き受けてみると、チームでないと難しいことや、制作プロセスの理解や共通言語ができていないとうまくいかないこともあります。今でもどうしていくべきか悩んでいるところです。相対的に見ると、松本は個人で商売をしている人やお店が多くあり、そういった繋がりの中での仕事の機会は多いのかもしれません。」

東京に比べ人口密度が低い松本は散歩も快適

 グローバルな仕事と地域の仕事をバランスよく受けられたら理想的だと話す太田さんだが、現時点では、地域やまわりの人との関係が深まって力になりたいという気持ちが自然に湧いてくるまで、自ら積極的には動いていないという。まずは時間をかけて地域や人との関係を結んでいくこと、そして自分の仕事のスタイルをはっきりさせてから取り組む方が賢明だ、との判断からだ。決して地域に対して閉じているわけではなく、未熟だからこそ自身を探索したい時期ということなのだろう。

「都心と地方という対立したものの見方や、ヒエラルキーのような物差しですべてを測らず、自然体で松本の暮らしを楽しみたいです」

 そのように語る太田さんの、高低差で物事を見るのではなく、低空飛空を楽しむかのような姿勢が印象的だった。

この日の散歩の終着地点は松本城

 

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